移民家族の貢献 3
〈痩身で5フィート・8インチ、13歳、冒険小説を好み、機械のエンジニアを志望〉
・・・と記録に残っているアルマンド・コーディナは、1963年初め孤児院を出てニュージャージー州ポンプトン・レイクのオブライエン家の里子になりました。
オブライエン家にはすでに5人の実子がいましたが、このキューバ人少年のために食卓の席を作ってくれたのです。
彼はニュージャージーの高校に入学しました。
この移民グループの生活はたしかに向上しつつありました。
しかし、彼らは大家族を抱え、ほとんどの妻は職についていなかったのです。
たどたどしい英語、おぼつかない技術、過密な住宅事情、実入りの少ない仕事・・・
そして新聞によると話にならぬほど低い給付金とフロリダの社会福祉制度によるわずかな控除に頼って生活していました。
当時貧困問題はワシントンの官僚政治家の重大関心事でしたが、この移民たちはそれをさらに増大させる存在であり、その年マイケル・ハリントンが『もう一つのアメリカ』のなかで怒りをこめて暴露している〈目に見えない貧困〉と呼ばれる統計上の難民の仲間でした。
事業は蓄えること・・・
つまり消費を見合わせることから始まります。
それは遠くから客観的に見れば貧困と変りはありません。
しかし多少の収入があり、どうにか住む場所もあって、福祉の援助を受けている家族は、たとえどうしても抜け出すことのできない困窮の泥沼にいる場合でも、データ上では問題なく暮しているように見えるのです。
しかし、1964年、彼らが来てからおよそ3年後・・・
この物語に登場する移民4家族はマイアミの経済にめざましい貢献をし始めていたのです。