移民家族の貢献 2
ホセ・ピネロは8番街で中古レコードの行商を始めて数週間のうちに新しい仕事をもうひとつ作り出していました。
30日ほどかかってセット物のレコードを売ってその儲けをためこんでいます。
やがて人通りの多いタワーシネマ近くの小さな店を月百ドルで借りてそれを改装できるだけの額になりました。
その店をハヴァナの下町にある大手デパートにあやかってウルトラと名づけ、映画館の観客や散策の人々を目当てに、人気のあるラテンものの輸入レコードを売り始めました。
また一方、1961年の半ば頃、6人の子持ちの失業銀行員アモウリ・ベタンクアートはココナッツ・グローヴの銀行に職を見つけていました。
マイアミで最も古い3つの銀行の一つでしたが、そこに国際部がないのに彼は目を留めました。
彼は、6週間後には副社長補佐になり、タイム・レコーダーを押さなくてもいい身分になりました。
ラテン・アメリカとの貿易が増えている折柄それを扱うためということもあって、国際部設置の仕事を任されました。
一方、フェリーペ・ヴァルスの妻は女児を出産してマイアミの社会福祉に負担をかけ、家族一人当りの貧困度の統計値をぐっと低下させる結果になりました。
フェリーペはやがて皿洗いの仕事にうんざりして、レストラン用品会社のセールスマンの口を見つけました。
ちょうどリトル・ハヴァナでレストラン用品の需要が高まっている時期でした。
その頃まだマイアミ・ビーチのごみごみした地域に住んでいたドクター・オーユルスンは、外国人医事局の試験の準備中でした。
・・・それに合格すれば、制約はありますが、アメリカ国内で開業できるのです。